「落下」と「場所」と;播磨みどりについて

 藤井誠二『少年に奪われた人生 犯罪被害者遺族の闘い』(朝日新聞社)に収録されている短いエッセイ「加害者のその後」には、次のようなエピソードが記されている。

  1989年に発覚した「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」から10年後、藤井は加害当事者の一人であるカズキ(仮名)に再びインタヴューを申し込む。カズキはインタヴュアーが藤井であること、あらかじめた決めた質問以外はしないという約束の下でインタヴューを承諾する。

《インタヴューの場所は、テレビ制作会社の会議室にした。会議室の天井に照明器具をとりつけ、簡易スタジオをつくった。
(中略)どれぐらい時間が経ったころだろうか。私は事件の核心について聞きはじめた。カズキが被害者となった女子高校生に加えた凌辱行為をなるべく具体的に語ってほしかった。カズキはこちらの意を読み取ったのだろうか。ごまかさずに話しだした。どうして自分はやめることができなかったのか、という悔恨の念も漏れた。と、そのときだ。天井からつり下げていた照明器具が落下したかと思うと、照明器具とつながっていたコードが振り子のひものようになり、照明器具が振り子の原理でこちらに飛んできたのだ。一瞬の出来事だった。振り子となった照明器具はカズキの頭を数センチかすめ、そのまま床に落下した。
「ああ、俺は許されていないんだ。彼女が怒っているんだ」
 そうカズキがつぶやいたかと思うと、彼は両手で頭を抱え込み、つっぷしてしまった。がっちりとした背中がかすかに震えていた。撮影はそこでいったん中断するしかなかった》。

 完全なる不意打ち、通りすがりのビンタのように、時にカズキの頭をかすめ落下した照明器具として、播磨みどりの作品は観る者にふりかかってくることがある。照明器具の落下が藤井やスタッフが意図したものではないのと同じく、播磨には「驚かせよう」、「怖がらせよう」という意図は微塵もない。

《私はカズキに何も声をかけることができなかった。が、私はそのとき初めて、カズキは心から罪を悔いているのではないか、と感じた。彼は少年院をでたあと、被害者を供養するために母親とお寺に通ったりしていたし、言葉を交わせば現在の誠実でまじめに生きる姿勢は伝わったきた。しかし、他者の心中はそう楽々と推し量れるものではない。口ではなんとでも言える。しかし、カズキはふいのアクシデントに身体まるごと反応したのではないか》。

 播磨の作品を観る者は、その落下によって藤井が「カズキは心から悔いているのではないか、と感じた」ように、何がしかの自分の「本性」を、時に発見してしまう(それが何であるかは無論、その者によって異なる)。
 なぜ、このような「仕掛け」が可能なのか。そしてその「発見」が実行されている際、播磨は「どこに」いるのだろうか。 この問いに答えようとする時、我々は藤井が「そのとき初めて、カズキは心から悔いているのではないか、と感じた」と記していることをもう一度思い出さなくてはならない。藤井がカズキを取材したのは初めてではない。《カズキは少年院を退院後、すぐに交通事故に遭い、入院していた。以後、私は彼のいる病院に通いつめ、屋上や付近のファミリーレストランで、彼の記憶にある事件の全容や彼の内面を聞き取っていくことになる》。にもかかわらず、藤井はここで初めてカズキの「本性」を発見してしまう。取材相手を、人を、(そして自分を)、容易に信じることを抑制し続けること、そのような「怖ろしい場所」に藤井も、播磨もいる。このことだけが作品の「仕掛け」を可能にし、「作品」という無為の地獄からつま先を立たせ、我々にその高さの分、「発見」を生じさせる。

《一つの感覚を残して感覚がすべて消えてしまった、静かでこじんまりした谷間を想像してみよう。そこは匂いもなく味もなく、聴くものもなく、また手に触れるものもなく、ただ目に映るものに対する反応があるだけである。近くに静かな池がある。とても静かで、澄んだ鏡のようだ。のぞいてみれば、わたしたちの影が映って見える。まさに、想像したのと寸分違わぬ服装と、同じ顔付きをして・・・・・・。
 ああ、これが《わたしたち》なのだ。おなじみのわたしたちの姿なのである。すばらしい、完璧な自分の姿にうっとりしていると、とつぜん、それを映している鏡の下に、予想さえしなかった、ぼんやりとした影があるのに気づく。この不透明な表面はくもりがちである。映っているものの形も定かでなく、色もたえず変わっている。しかし、それはわたしたちなのだ。というよりは、《わたし》または別のわたしたちの一つというべきだろうか? この不確かな像を調べていて、だんだんそれを受け入れてもいいような気持ちになったとき、わたしたちは気づくのだ。すなわち、その像の下に、わたしたちの自己の一つを映すもう一つの鏡があり、その鏡の下にはさらにもう一つの
鏡があるということに、である。この三つめの鏡は透明で、その表面と裏面の両面に映るものがちゃんと見える。しかも、わたしたちはそこにもわたしたちの自己の一つがあることを信じようとはしないのだ。ところが、わたしたちは四つの像と一緒にそこにいて、わたしたちのすべての像が自分たちを見ているのである。もうひとつ意味合いがはっきりしないながら、わたしたちは最初の三つは受け入れる。しかし、透明な鏡の裏面に映っている四つめの像は、依然としてわたしたちを当惑させ、挫折の危機に陥らせるのだ。《わたし》に対してこんな仕打ちをするなんて信じがたいことだが、わたしたち自身が目で見たとおりである》。(「鏡に映ったわたし」『A列車で行こう デューク・エリントン自伝』 中上哲夫訳 晶文社 より)

「わたしたちを当惑させる」四つめの《わたし》、そのような「怖ろしい場所」に、播磨みどりはいつづける。

播磨みどりwebサイト